歴史を感じさせる佇まい 任天堂旧本社屋
京都市内の西に位置する大和大路通の方広寺から東は千本通まで、途中、渉成園(枳殻邸)、東本願寺、西本願寺などで中断しながらも東西に走る通りがあります。通りの名前は正面通(しょうめんどおり)。方広寺の大仏の正面につながる通りであることに由来する名称だそうです。
方広寺の入り口がある大和大路通から、この正面通を西へ300mほど歩くとやがて鴨川に架かる小さな橋「正面橋」へと辿り着きます。そのまま橋を渡り道沿いに歩くと右手に何やら味のある古い小さな建物が見えてきます。その建物こそ今やビデオゲーム業界に置いて世界的企業まで成長した任天堂の旧本社屋です。
京都正面大橋西
何の前知識もなく歩いていると通り過ぎてしまうかもしれないくらい、正面通に面した間口は狭く、任天堂の名称も玄関の横の小さなプレートに右から「山内任天堂」と書いてあるだけです。プレートには他にも「トランプ」「かるた」そして住所が書かれています。
気になるのは住所である「京都正面大橋西」の表記。渡ってきたのは「正面橋」。これが昔はもっと大きな「正面大橋」だったのか、それとも別に「正面大橋」があったのか?ちょっと謎です。
骨牌・花札から始まる任天堂繁栄の歴史
任天堂の歴史を調べて見ると、1889年に初代店主「山内房治郎」が京都府京都市下京区で任天堂骨牌(山内房治郎商店)を創業して花札の製造したのが始まりとの事。1902年には国内初となるトランプの製造も開始。1929年には「山内積良」が二代店主に就任。この建物はその時代に建てられたものらしいです。1949年にはファミコン 世代である自分にも親しみがある「山内溥」社長(通称:組長!)時代に入ります。まだまだ今現在のような「ビデオゲームの任天堂」では無い、京都の娯楽玩具製造販売会社だった時代です。
花札と遊郭と博徒一家、もう一つの京都
しかし初代店主がなぜ「かるた」「花札」製造業を始めたのか、なぜこの地だったのか?観光では見えて来ない京都のもう一つの顔。何となく想像がつきます。早川書房の「セガvs.任天堂 ゲームの未来を変えた覇権戦争(上)」あたりを読むと創業当時の興味深い話も書かれておりますので、ご興味のある方はぜひご一読ください。
そういえばこの旧本社屋の少し北側は2010年頃まで「五条楽園」という遊郭・赤線地帯でもありました、おそらくそこを仕切っていたであろう幕末から続く博徒一家の事務所もあ…
おや、こんな時間に誰か来たようだ…失礼…
単行本(2017/3/23)
1990年、任天堂はアメリカにおける家庭用ゲーム機市場の90%超を握る圧倒的な存在だった。一方、セガは大いなる野心を秘めた注目株だったものの、アーケードゲーム専門の中小メーカーにすぎなかった。だが、トム・カリンスキーがセガ・オブ・アメリカのCEOに就任したのを機に、潮目が変わりはじめる――。「チーム・カリンスキー」が次々に繰り出す常識破りの奇策は、セガと任天堂の間に莫大な収益をめぐる「仁義なき戦い」を引き起こした。ソニックとマリオ、日本とアメリカがにらみ合い、家庭から米連邦議会に至るまで、あらゆる戦場で繰り広げられた激闘の行方は? 600億ドル産業を生み出した企業戦争の内幕に、200人を超える取材で迫る痛快群像ノンフィクション。
単行本(2017/3/23)
カリンスキーたちの大胆な戦略が功を奏し、セガはアメリカ市場で任天堂からシェアを奪い、業界トップに躍り出る。だが、両社が死闘を演じている間に、彼らはより深刻な対立に苦しんでいた。それは、セガ・オブ・アメリカと日本のセガ本社の間で起きつつあった内紛で、やがて想像を絶する「お家騒動」へとエスカレートしていく。革命的ゲーム機「ジェネシス(メガドライブ)」で市場を席巻する風雲児セガ、「SNES(スーパーファミコン)」と人気ソフトで巻き返しを図る巨大帝国・任天堂、そして、次世代機「プレイステーション」で参入の機をうかがう新星ソニー――三つ巴のゲーム界「三国志」を制し、覇者となるのは誰か? 個性あふれる登場人物、熾烈な駆け引き、息をもつかせぬ展開で、隆盛期のゲーム業界に集った人々の栄光と挫折を描く壮大なサーガ。
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